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記念鼎談「横浜片倉道院の20年を振り返って」第2回

二十周年を記念して、三枝道院長、佐藤副道院長、三好道場長の三人に集まっていただき、設立の経緯や設立当初のお話、今後の展望などを伺いました。(全6回予定)

(インタビュー:古村)

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「20名」を集めて横浜片倉道院設立


―次に設立前夜のお話に移りたいと思います。

これは主に三枝先生に話していただくパートかと思います。


三枝:もともとは、、、このテーマは少林寺拳法の学科のようなもので、「道院開設の動機と目的」だよね。


一同 笑


三枝:当時、桐蔭学園で15年やっていて校外部長・監督だったけれども、県連のお手伝いをしていた時期があって。その流れで最終的に、今は県連事務長をやっています。その手伝いをする中で道院の人と年中顔を合わせるわけですよ。並行して横浜星川道院(保土ヶ谷区)とかなり親密な付き合いになって、その交流の中で自分も道院を興したいなと単純に思ったのがきっかけです。


―道院の方とお話しされる中で、道院を作りたいなと思ったのですね。


三枝:そうですね、それまでは主に学校の先生としか話す機会がなかったですから。


―思いきって動こう、と思った具体的なきっかけはありますか?


三枝:んー、やろうと思ったら、やるしかないからね。自分はあまり人に相談しないから、今もそうなんだけどよく悪い癖だといわれます。家内にいつも叱られてます。


―いいですね、そういう話 笑


三枝:いや、これからはそうじゃいけないなと、今頃やっと分かった笑

佐藤:今でも本当に奥さんによく怒られてますから笑

三枝:何をやるにも相談しないで決めちゃって、自分で勝手に進めちゃう。道院に関してもそうなんだよね。でもそうは言いながらも、家内は2級まで昇級しましたよ。

佐藤:道院設立時に奥さんも拳士になったんですよね。

三枝:道院が正認可のときには家内が本山に同伴してくれ、鈴木元代表と一緒に写真撮ったもんね。茶帯で道衣についている緑の卍が懐かしい。いろいろ文句は言ってたけど、自分のやることに理解はしてくれていたみたい。


―道院設立前の準備はいかがでしたか。


三枝:道院設立で一番苦労したのは、人集めですね。修練場所は自分の卒業した地元の小学校※を確保できたけど、人がなかなか集まらない。(※当時は公共施設も可であった)最初の年から最低で10名の登録が必要だったんだよね。

佐藤:いや、20名ですね。ちなみに今は少なくてもよいみたいですが。

三枝:あー、20名か。20名ってものすごいハードル高いんだよね。

だから最初は自分の子供たちと、妹夫婦とその子供たち(孫)にも入門願書提出を頼んだり。でもこれは最初の頃だけで、だんだん人が入ってきて、道院として半年後には拳士20名以上でちゃんと動いていました。


―本山は正認可時前にも帰山していたと聞きましたが。


三枝:本山へは初段の頃から行っていて、元々所属していた横浜中央道院というのは

開かれた道院で、よく帰山するようにと言われていました。講習会には初段の頃から行っていました。


―本山は香川県ですが、だから遠いと思ったことがないんですね。


三枝:そういえば、開祖の亡くなった次の日(1980年)も瀬戸号(夜行列車)でいきました。その時に道服を持っていなかったので、借りて行ったんだけど、そしたら列車の中は同じような服装の人たちがうじゃうじゃいたんだよね笑。自分は横浜から乗ったんだけど、だんだん道服の人が車内に増えていって岡山へ着く頃にはいっぱいになった感じ。本山といってもあまり遠い存在ではなかったですね。


―じゃあ、本山での正認可というのもあまり緊張とかはしなかったんですね。


三枝:そうです。



(第3回へ続く)

 
 
 

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